木曽駒ケ岳大量遭難事故を想う

木曽駒ケ岳大量遭難事故を想う

2020年9月18日 オフ 投稿者:

2020/08/26執筆

皆さん、こんばんは。社団法人ランナー龍(たつ)です。

登山をしている多くの方がご存じかも知れませんが、

この8/26と言えば木曽駒ケ岳大量遭難事故が発生した日にちである。

1913(大正2年)の同日に発生したこの山岳事故からは

107年という年月を経ている。

 

大正と言えば、私の祖父が生きた時代。戦争も経験しています。

もう100年以上も経過しているので、現代と比較して当時の登山はより過酷なものであったとは思います。

 

時代が違うと言われればそれまでですが、

それでも登山のリスクは今も昔も変わることはなく、

この事故を忘れない、そして教訓を生かそうと今も尚、語られるこの木曽駒ケ岳大量遭難事故に自分なりに向き合ってみようと思います。

 

 

木曽駒ケ岳大量遭難事故とは一体、どんな事故だったのか

大正2年、8月26日から27日に木曽駒ケ岳の稜線上で台風による悪天候に巻き込まれ中学生及びその教員ら38人が遭難。うち11人が死亡した事故である。

ここでいう遭難は「道迷い」ではなく、低体温症が行動不能を引き起こしたことを指します。

8月でもアルプスの稜線で長時間雨に打たれれば、低体温症に十分なりえます。さらに、温暖化の関係で、この令和の夏よりも当初の大正時代の夏の平均気温は低かったことも想像します。

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8月26日、長野県の上伊那郡中箕輪村の中箕輪高等小学校(現在で言う中学校)では、鍛錬や教育効果を狙った集団登山として、恒例行事の木曽駒ケ岳山頂に1泊2日の予定で朝5時に出発する。

気象情報では好天の予定も台風が急接近し、暴風雨に見舞われる。ここで一行はそのまま進む判断をし、結果山頂付近に到着したのは午後8時。

予定の小屋に到着するも、損傷が激しく、雨風を防ぐことは出来ず、焚火もできなかった。雨が氷結したとの証言から気温は零下まで下がっていたと思われる。

8月27日、午前9時ごろまで小屋の中で耐えるものの、生徒の一人が低体温症で死亡する。さらに二人低体温症の症状が出たことから下山を決行。

先導している赤羽校長が途中、濃ヶ池付近で死亡したことで、生徒たちは自分の判断で行動するしかなかった。

その後、20人あまりの生徒は死の危険を冒しながら午後1時に内ノ萱に辿り着き、村人たちの救護を受けた。

8月28日、午前1時に捜索隊が出発。安否不明者の捜索が行われた。ここで数名の生存者を救出するが、最終的に死者が11人出る事故に至った。

Wikiより抜粋

稜線上の遭難現場には、この事故を忘れないようにするため、「聖職の碑」と呼ばれる石碑が祭られている。

後日、新田次郎により小説、映画化されている。

 

この事故から読み取れること

午後8時ごろに山頂に辿り着き、そこから翌朝9時頃まで同じ場所で耐え忍んでいるが、この時間が非常に長い。途中で雨が過ぎ去ってくれればよかったが、自然は何とも無慈悲である。

校長の静止を振り切って飛び出した青年がいたことから、ここで一人が死亡したことがパニックの引き金となったようです。

標高3000mへの集団登山と言うのはかなりリスクのある登山だと思いますが、恒例行事と言うことで、校長や教員はそれなりの経験値に基づく計画を立てられていたかと思います。

しかし、おそらくは自然の厳しさを知ることなど、教育効果を趣旨としていることから、途中の荒天に見舞われた時に引き返さず、進み続けてしまったことが、事故発生のターニングポイントになったかなと私は思っております。

低体温症の症状の1つとして、判断力が鈍るというのがありますが、パニック症状になっても同じように冷静な判断ができなくなりますので、生存率を下げる結果となります。そんな中でも、死亡者より生存者の割合の方が多かったということは、若干14歳の(中学2年生)彼らが日頃からかなり鍛えられていたのだろうかと、思う部分もありました。

山頂の小屋が破壊されていた、というのは誤算だったのでしょうか。

これは、今言っても仕方のないことですが、ぶっつけ本番ではなく子供たちのために事前にルートを一通り歩くなどの下見が習慣になっていればまた違った結果だったのかもしれません。

 

そして、時代は過ぎ、現代。なんと、この恒例行事は続けられておりました!

前略

当日は朝5時30分から学校で出発式があり、隊長の市場校長先生から「帰ってきたら皆さんに楽しかったか質問します。」と挨拶があり、生徒109名、先生10名、ボランティア5名の総勢124名が4台のバスに乗り5時45分に学校を出発。

中略

最後の下りは30分ほど雨に降られましたが、全員無事に下山!!17時30分に学校での到着の会で、隊長の市場校長先生から「また、登ってみたい人」の質問に手を挙げたのは10人程度、「二度と登りたくない人」の質問には挙手したのはたった2名。手を上げない子供たちの多くも含め、きっと今回の登山が胸に深く刻まれたものと信じています。

出典:長野県魅力発信ブログ しあわせ信州より

なかなか微笑ましいです。そして私も行きたかった。うらやましい(笑)

とは言いましたが、生徒109名参加と言うことで、親御さんもよく承諾したなと思います。中学生の体力で登るような山ではないと思うので^^;

また登りたいと手を挙げた10名程度は、将来楽しみです。

二度と登りたくない人の2名の他、手を挙げなかった100名近くは、同じように二度と登りたくないと思ったんだろうなあ・・・

それでも、この経験や景色は胸に刻まれたことでしょう。

中央アルプス木曽山脈の夜明け

 

 

低体温症の怖さ

熱中症も低体温症もどちらも命の危険があり、怖いのですが

何が恐ろしいかって、それは自分の体が思うように動かなくなることです。

私も過去に低体温症になりかけた経験があります。

それは8月の富士登山。

御殿場口を登ったのですが、登り始めて割とすぐに雨が降ってきました。まだ6合目くらいでクソ暑く、気持ちいいくらいでそのまま登り続けましたが、標高が上がるにつれ、知らずに体が冷えてきて、震えるくらいになったタイミングで防寒具とグローブを装着しました。

ところが、その判断が遅かったため、なかなか体が温まらず、御殿場口は山小屋もなかなか無いので暖がとれず、次第に震えが大きくなり、

やがて、震えが止まり寒さを感じなくなります。頭がぼーっとしてきて、

休んだらそのまま眠ってしまう気がして、目前にあると思われる山小屋まで進む判断をし、ようやくたどり着いた山小屋で甘酒を飲み、

しばらく休むと、急に体が震えてきて、「寒い」という感覚が戻りました。

その後にザックの中にある、銭湯に入った後に着替えるものなども、ここで着替えて濡れていない状態にしました。

すると30分もしないうちに、体全体が温かくなり、登山に復帰できるまでになりました。

正確に低体温症だったのかは分かりませんが、寒いと感じ、震えが止まらなくなり、やがて寒い感覚が分からなくなるところまでになったので、忘れられない経験にはなりました。登山を始めたての随分前の話ですが情けない話です。

以降、8月の登山でも低体温症を常に意識するようにしています。

 

本当に低体温症には気を付けたいです。

自分の経験や、このような過去の事例から安全登山への意識づけにしていただけたらと思っております。

尚、この記事は事故についての専門的な解説を行うものではなく、個人的な所感を思うままに書いているだけのものであることをご了承ください。

ではまた!